昨日、駅で乗り換えるための長い階段を降りていたときに、後ろから足を踏まれてしまい、左の靴が脱げてコロコロと下へ落ちていきました。
とても混雑していたので、前の人にぶつからないように足元を見ながら歩いていたときのまさかの事態。
ヒールのパンプスが10段以上転がり落ちていく様子を、自分でもびっくりする位冷静な目で見ていました。
転がる靴を取りに行けないほど階段を降りる人で密集していたので、降りる流れに逆らわないように、左足だけストッキングの状態で10数段歩きました。
その間、3人の方に踏まれて落ちていく靴の後ろを目で追いかけながら歩き、4人目の方が目の前の靴に気付いて立ち止まった瞬間に、靴を回収して端へ移動。
そして、何事もなかったかのように靴を履き、姿勢を正して歩きました。
この出来事が、とても不思議だったのです。
靴が脱げて転がり落ちている時間は、たった数秒、恐らく長くても15秒位だっと思いますが、その時間がスローモーション映像のように感じたのです。
実際は普通の速度なのに、とてもゆっくり歩く感覚でした。
ホームで立ち止まったときに、そのスローモーションの感覚を振り返るのと同時に、踏まれる靴を思い出して急に悲しい気持ちになりました。
どうして悲しい気持ちになったのか。
それは、踏まれた靴がかわいそうだと思ったからです。
つまり自分がかわいそうだと思い、悲劇のヒロインだと感じたからだと思います。
これは、自己憐憫(じこれんびん)と言う「何てわたしはかわいそうなのだろう。」というような自分を哀れむ心理状態です。
わたしは驚きました。
自分の中に、このような心理があるとは知らなかったからです。
昨日は色んなことがあり、精神的に少し疲れていたのかもしれません。
その後、友人にこの出来事を伝えると
「靴を踏んだ人は、拾ってくれなかったんだね、、、おっとりと靴を拾いに階段を下りるココちゃんの姿が目に浮かびます(´Д`)」
という言葉が返ってきました。
そして、その言葉に涙が出たのです。
どうして涙が出たのか。
きっと、その共感してくれた言葉に救われて、心が満たされたからだと思います。
そしてその言葉によって「わたしの靴につまずいて誰もけがをしなくて良かった。」と思えました。
昨日は何だか自分の中にある、普段気付かない心に向き合えた一日でした。
突然思いもよらないことが起きたとき、人は本性が出るのでしょうか。
疲れていたとは言え、すぐに他の方がけがをしなくて良かったと思える自分に成長したいです。
悲劇のヒロインが出てしまいとても恥ずかしい記事ですが、自分のために書きました。
そして、わたしが救われた友人の言葉によって、共感が大切だと改めて感じました。
誰かへ共感していることを伝えることが、こんなわたしでもその方の心を満たすかもしれない。
そう思える学びでした。